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二人の力:初めての汎用電子計算機ENIAC

プレスパー・エッカートとジョン・モークリーのケース

1998/09/14 掲載

エッカートだけは支持した

1941年夏エッカートとモークリーはペンシルバニア大学のムーア・スクールで初めて出会った。エッカートがそこで電子工学の講師をしているとき、モークリーが学生として入ってきたのである。ただし年齢はモークリーの方が12歳年上の34歳で、すでに博士号を持っていた。 プレスパー・エッカートは若干22歳の大学院生だったが、天才的な電子技術者で、すでにテレビ受像器に関する特許を持っていた。 ジョン・モークリーはムーア・スクールで真空管を利用した本格的なコンピュータをつくるアイデアを提案していたが、ムーア・スクールの研究者たちは支持しなかった。その中で、エッカートだけはモークリーを支持したのである。それから二人は親交を結び、二人の部屋や、終夜営業レストランで何時間も話し込んだ。

とても楽しかった

「「「とても楽しかった」と、モークリーはエッカートといろいろ話したとこについて語っている。「エッカートと話していて、私にとって最も重要だったのは、第一に私の言っていることを相手が理解してくれたこと、第二に私の話を実現可能なものと考えてくれたことだ。エッカートはけちをつけるようなことはしなかった。ほかの人々にはよくこんなふうに言われたものだ。「真空管はあてにならない。つくったところですぐに故障して、ものの役にはたたないだろう」と」」
「コンピュータを創った天才たち」より

数日間徹夜覚悟で企画書を書いた

1943年あたかも第二次世界大戦中で、陸軍の弾道研究所は弾道計算の速度で壁に突き当たっていた。そのとき、ムーア・スクールでの彼らの計画を知り、説明を求めてきた。エッカートとモークリーは数日間徹夜覚悟で企画書を書き、ついに陸軍から二人の計画は承認され、40万ドルの開発費でプロジェクトがスタートしたのだった。モークリーがプロジェクトの最高顧問、エッカートは主任技師としてプロジェクトを遂行した。ENIACとよばれた電子式計算機は1946年に初めて公表された

コンピュータの代名詞

第二次世界大戦終結後二人はコンピュータの構想が軍事的な利用だけではなく、ビジネスの世界にも大きな利用価値があることをとらえ、ペンシルバニア大学を辞め、二人で会社を興した。彼らの会社はその後レミントン・ランド社に買収されたが、彼らもそこで働き商業用として設計された初めてのコンピュータUNIVACをつくった。UNIVACはIBMの時代がくるまでのしばらくのあいだコンピュータの代名詞となったのだった。

参考文献および関連書籍の紹介
「コンピュータを創った天才たち」 ジョエル・シャーキン著 名谷一郎訳 草思社 1989年10月  3200円
著者は科学読み物のライターで、コンピュータの歴史を興味深く伝えてくれている。バベッジも第2章にアルファベット・ファンクション卿として登場する。歴史の好きな人ならけっこう楽しく読めると思う。

 

 

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