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Ikeda Toshio
1923 - 1974
富士通コンピュータの生みの親
「会議で池田さんがセキでもすると、社長自ら上着を持って行って、池田さんの肩にかけたというほどです」というエピソードが田原総一朗氏の労作「日本コンピュータの黎明」に紹介されている。池田敏雄という一人の人材に富士通は社運を賭けた。当時の岡田社長の大号令のもと国産コンピュータ開発に乗り出したのである。1960年代のはじめのことだった。池田敏雄のまわりには、後に富士通社長となる 小林大祐氏や山本卓眞氏など選りすぐりのメンバーが配置されたが、すべては池田敏雄一人の頭脳にかかっていた。
池田敏雄は1923年日本国の東京両国で生まれた。その年はちょうど関東大震災のあった年で、 池田敏雄は生まれたばかりだった。震災で東京の下町は壊滅的な被害にあったが、 奇跡的に彼と家族は無事だった。1936年東京市立第一中学校(現在の都立九段高校) に入学した。
好きなことは徹底的に凝るが嫌いなことは全然やらない という天才肌はこのころからだったらしい。バスケットボールに集中し全国優勝している。1941年浦和高校に入学、囲碁とクラシック音楽が池田敏雄の凝り性リストに加えられた。数学の才能は際だっていた。1943年東京工業大学電気工学科に入学した。終戦後1946年大学を卒業し、富士通に入社した。就職難だった。
その後富士通はリレー式計算機から始め、コンピュータ事業に参入していくが、 中心には常に池田敏雄がいた。彼が構想を練り、新しい回路を設計しコンピュータができていった。 池田敏雄は熱中すると朝まで自宅で仕事し続けるので、しまいには会社に出勤しなくなって しまったらしい。この規格外社員に社内から批判が集中したが、守る人たちがいた。
「このときも、尾見や小林が奔走して、処分はもちろん、給料カットも跳ね返したばかりか、大幅遅刻を続ける池田に限っては、その遅刻の有無を問わない「月給扱い」にするという特枠を会社にみとめさせたのである」
電電公社の小さな下請け企業だった富士通は、その後、池田敏雄のコンピュータとともに成長した。 役職があがるたび池田敏雄の役割もより大きいものになっていった。
ジーン・アムダールはIBM System/360のアーキテクチャを作り上げたデザイナーだ。池田敏雄はそのアムダールがIBMを去る前の年1969年に密かに彼と会った。一流の技術者どおし波長が合ったのだろう、すぐに意気投合したらしい。翌年アムダールはIBMを退職しアムダール・コーポレーションを設立した。富士通はアムダールの事業をとっかかりにIBM互換機ビジネスに乗り出した。
しかしアムダールの事業はうまくいかず、富士通はどっぷりと泥沼につかることになった。池田敏雄もアムダールをバックアップするためかけずり回った。1974年この間の殺人的スケジュールと過労がたたったのだろう、羽田空港で急逝した。カナダからの来客を迎え、握手した瞬間のくも膜下出血だった。51歳。
「私の人生に最も影響を与えた天才はあっと言う間に、生命をコンピュータ開発に燃やし尽くしてしまった。何と生き急いだことか。富士通はこの日、池田氏を専務に昇格させたが、本当に壮絶な戦死だった」
池田敏雄はIBM互換路線を積極的に推進したといわれる。なぜIBM互換路線だったのか? それは傍目からはかなり不自然な選択だった。日本電気の会長だった小林弘治氏は田原総一朗氏 のインタビューに答えてこう言った。
「だって、IBMがちょっと何か変えたら、こっちも必死になってそれに合わせて変えなきゃならん。つまりIBMに振り回され続けなきゃならんわけで、そんなもの長続きするはずがないでしょ」
小林氏の言うことは至極もっともで、むろん池田敏雄もそんなことは百も承知だったはずだ。 しかし、世界をターゲットにする、いずれくる日本のコンピュータ市場の自由化をにらむ、 の2つを考えると、70%以上のマーケットシェアをにぎるIBMを無視した戦略はとれなかった。 このとき富士通は世界を目指したのだった。 その後、互換機ビジネスで富士通は大きく躍進し、1979年富士通は日本国内でIBMを抜きシェアトップにたった。
しかし当時のIBMにとって日本のコンピュータ企業がアメリカはおろか、世界で商売するなどとんでもないことだった。そこはIBMのテリトリーだったのだ。事実アメリカ以外のコンピュータ企業はイギリスのICL、フランスのブル、ドイツのシーメンスなど数えるほどしかなく、それも経営状態はよれよれでIBMのおこぼれを拾っている状態だった(いずれも後に日本企業の支援を仰いでいる)。それに引き替え、日本は政府の強烈なバックアップのもと、富士通、日立、日電、沖、三菱などみな元気で、日本におけるIBMのシェアはみるみる落ち込んでいた。こうしたことはIBM経営陣にとって許し難いことだったにちがいない。 巨人IBMのパンチは、反トラスト法の鎖から解かれるとすぐ飛んできた。
1982年6月23日に突然のニュースとして伝えられたこの事件を覚えておられる方はもう少ないかと思う。しかし、今から思い出しても驚天動地の事件だった。日本のトップメーカーである日立製作所と三菱電機の技術者がIBM3081-Kの機密情報を盗んだとしてFBIに逮捕されたのだ。後ろ手に手錠された技術者の写真が大きく報道された。ダミー会社を仕立てたIBM+FBIのおとり捜査だった。
この事件の前の年、1981年1月米国の著作権法が改正された。 今までなかったコンピュータ・ソフトウエアの著作権条項を追加したのだ。 この改正の前まではソフトウエア著作権はあまり意識されていなかった。 富士通会長だった山本卓眞氏の証言を聞いてみる。
「富士通は汎用機に自社開発の基本ソフト(OS)を載せてIBM機との互換性を提供するビジネスを70年代前半に始めた。このころ、IBMはソフトウエア情報を公開しており、著作権表示もなかった」
ところが、この著作権法改正以後、状況は一変することになる。 ソフトウエアの著作権は厳しく管理され、紛争も多発するようになった。 ソフトウエアの使用許可を与えるライセンスビジネスも興隆した。
1982年1月米国司法省はIBM反トラスト法訴訟を取り下げた。それまで11年間 IBMの活動を制約していたこのくびきは、レーガン政権の強いアメリカ構想により はずされた。そして半年後に事件は起こった。 当初から、この事件の本当のターゲットは富士通だったのでは?とうわさされたが、 それを裏付けるかのように同じ年の10月に富士通はIBMから著作権侵害の通告をうけた。 それは長い長いIBMとの著作権紛争の始まりだった。紛争はAAA(米国仲裁協会)に持ち込まれ、 1988年に決着するまで実に7年の歳月がかかった。 富士通は膨大な和解金(約8億ドル)を払った。 このAAAの裁定で、富士通はIBMから技術情報を開示してもらう権利を獲得した (ただし数千万ドルのライセンス料を毎年払って)。
このころ日本はバブル経済を昇っていたが、同時にコンピュータの世界では深く静かに ダウンサイジングが進んでいた。皮肉なことに富士通が社運を賭けてIBM互換機ビジネスを 守っていたその時期に、IBMを中心とした汎用機ビジネスのパラダイムが地下で崩れていたのだった。 1991年IBMは初の赤字を経験し、1993年3月期末決算で富士通も上場以来初めての 赤字を計上した。そのときすでにコンピュータビジネスの主役は汎用機ではなかった。 1993年7月富士通はその年の情報開示をIBMに要求しないと発表し、 事実上IBM互換路線を転換した。ひとつの時代は終わりを告げた。
池田敏雄が急逝した際、葬儀に駆けつけたアムダールは池田未亡人にアムダール社の持ち株の一部を さしだした。このエピソードを当時池田敏雄の下で 働いていた富士通名誉会長の山本卓眞氏が明かしている。
「富士通は米アムダールを完全子会社化するために株式公開買い付けを実施した。この時、天才・池田敏雄元専務の夫人から電話をいただいた。二十五年前の池田氏の葬儀に駆けつけたアムダール氏は、盟友の急死を嘆き、夫人にそっと株を渡していた。 「思いでの株を売らなくてはいけませんか」。夫人にこう聞かれて絶句した。二十五年間、だれも知らなかった」
| 「日本コンピュータの黎明」 | 田原総一朗著 | 文芸春秋社 | 1996年1月 | 460円 |
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| 副題:富士通・池田敏雄の生と死 | ||||
| 「アメリカの制裁」 | 落合信彦著 | 集英社文庫 | 1987年5月 | 490円 |
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