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Okazaki Bunzi
1914 - 1998
日本最初のコンピュータFUJICの開発者(読者リクエスト)
「日本で最初のコンピュータを創った」という栄光の称号は、民間会社の一介のレンズ技師だった岡崎文次という男に与えられている。FUJICというそのコンピュータを、岡崎が会社の一セクションでわずかな予算を与えられて創っているとき、コンピュータは国家プロジェクトになろうとしていた。東大や阪大などの国立大学では多額の国家予算を得て、優秀な学者や研究者が何十人もコンピュータを一日も早くつくるべく競っていたのだ。むろん、どう考えたってコンピュータがひとりで創れる代物ではないことははっきりしていた。試作機や実験機でさえそうだったろう。だからこそ、専門の研究者が何人も集まってプロジェクトを組んでいたのだ。しかし、驚くべきことに幾多の研究者の先を行き、岡崎はそれをほとんど一人で成し遂げたというのだ。むろん実験機ではない。正真正銘の実用機だ。なにしろ岡崎はレンズの収差計算に、それを使いたいがために創ったのだから。
岡崎文次は1914年7月7日に日本国の名古屋市で生まれた。残念ながら少年時代の逸話は伝わっていない。たぶん、科学好きな秀才少年だったのだと思う。岡崎の若いときの写真を見ると富士通の池田敏雄とうりふたつという感じを受ける。いわゆる細面の数学顔で、世相を超越した一面を覗かせている。岡崎は、ユニークな数学教育で聞こえていた旧制八高(現名古屋大学)に学び、そこから東大に進んだ。1939年に東京大学理学部物理学科を卒業し、すぐに富士写真フィルムに入社した。米国との戦争が始まる2年前のことである。戦争中は陸海軍部の指示で軍事用の航空写真機などを作っていたとのことだ。戦後は小田原工場の鏡玉部設計課(今で言うとレンズ設計課)に戻った。レンズ設計が岡崎の本職なのだ。
岡崎は学生時代に当時最先端のサイクロトロンが置かれていた理化学研究所仁科研究室を訪れたことがあった。そこに放電管式の係数カウンタがあった。岡崎はそれを見たとき、計算機のことを考えたというのだ。
「カウントできるなら、計算もできるはずだと考えたが、そのままこの考えをずっと持ち続けていた」
そして、頭の隅にあったその考えは「科学朝日」昭和23年8月号のグラビアに載ったある写真を見て記憶の底から引っ張り出された。その写真はIBMがENIACに負けまいとして作ったSSECという巨大な計算機械だった。
岡崎はその頃レンズ部の設計課長として膨大な数値計算を何とかできないものかと考えていた。つまり計算機の可能性を常に探っていたのだ。当時のレンズ設計にはレンズを通過する光線の収差を確認するため、1つのレンズに対して1000本から2000本の計算が必要だった。それを計算間違いがあるとこまるので2人一組になって、対数表を引きながら何ヶ月もやるので大変な作業だったのだ。
しばらくして岡崎は、ある想いを胸に会社に企画書を提出した。「レンズ設計の自動的方法について」というそのレポートは認可され、20万円の予算で調査研究ができるようになった。岡崎は自分の余暇の時間をさいて1949年3月からコンピュータの基礎研究を開始した。
岡崎はコンピュータの専門家ではないのでゼロからの出発だった。当然だが、情報収集が非常に重要だった。ほしいのはアメリカの情報だ。当時まだ連合軍の占領下にあった日本にそんな情報が入ってくるはずもなかったが、GHQ(連合軍総司令部)直轄のCIE図書館というのがあったらしく、日本人にも公開されていたのだった。多くの研究者がそこを利用したらしいが、岡崎は写真屋だったので資料を撮影して時間を節約したとのことだ。今なら著作権がどうのこうので大変ごとだが、当時はそんなことはなかった。岡崎はプライベートタイムをすべて調査と予備研究につぎ込んだらしい。
まず、簡単なフリップ・フロップ回路の試作からスタートして、算術演算のできる論理回路まで進めた。これを社内外の見学者にデモンストレーションできるようになると、岡崎は難関の記憶装置の試作に入った。記憶装置は当時水銀遅延線方式とブラウン管方式の2つが選択肢としてあった。水銀遅延線メモリーは水晶振動子によって電流を水銀を伝わる超音波に変えるものだ。超音波は電流よりもかなり遅く伝わるので、反対側で拾って増幅しまた戻すことで情報を蓄えることができた。ブラウン管メモリーは、ブラウン管につけた偏光版がしばらく帯電することを利用して、帯電位置によって情報を蓄えようというものだった。岡崎の技術者としての目は迷わず水銀遅延線方式を選んだ。
「こんな調子で、メモリもやればできそうなメドがついた。外国でできているのだからできないはずはないと、いよいよFUJICの組立てにはいることになる」
コンピュータの予備研究に3年の歳月を費やして、論理回路と記憶装置を試作した岡崎はこれならできると確信を得たのだと思う。1952年12月から製作にとりかかった。その当時は、日本人によるコンピュータはまだなかったが、国家プロジェクトが静かに動き出していた時期だった。阪大では城憲三を中心としたグループがENIACをモデルとした試作機を作っていた。東大ではTAC(東大自動電子計算機)という大プロジェクトが1951年から山下英男を中心として動き出していた。また通産省の電気試験所や電々通信研究所でもそれぞれにコンピュータの開発が進んでいた。みな国家予算を使ったプロジェクトである。まさに日本コンピュータの黎明期だったのだ。
コンピュータは大きく分けると演算部、記憶部、制御部、入力部、出力部の5つに分けられる。このどれが欠けても実用にはならない。岡崎はこれらすべてをひとりで設計している。調査段階で演算部、記憶部、制御部についての見通しをつけていた岡崎は、入力装置と出力装置に手をつけた。
「入力データは数十語である。データの一部を取り換えて繰り返し計算するにはカードで入れるのが便利であり、出力は途中の計算の量にくらべて考えれば、タイプライタで十分であろうと考えた」
こうしてFUJICの製作が始まり、それまでは女子社員1名に手伝ってもらっていたが、そうもいっていられなくなり、東工大を出たばかりの矢野昭氏をはじめ数名の社員が手伝ってくれることになった。そうして幾多の紆余曲折と4年の歳月をかけ、1956年3月に岡崎のコンピュータFUJICは完成した。
FUJICは、当時国家プロジェクトが作ろうとしていた計算機たちとくらべると、驚くほど実用的だった。それは学問のために作るのではなく、研究のために作るのでもない、レンズ計算をしたいためにつくるのだという、岡崎の目的意識が非常に鮮明だったためだろう。
FUJICは同期方式に2系統(30kHzと1080kHz)を用い、1ワード33ビットの2進演算を行い、(a b)/cを1命令で実行できるユニークな3アドレス方式の17種類の命令セットを持ち、1700本の真空管を使った。記憶装置は水銀遅延線方式で9チャネルの水銀管で255ワード(約8400ビット)を記憶する。入力はパンチカード方式で、カードにプログラミングすることができた。出力はレミントン社製の手動タイプライタに改造を加えた電動式タイプライタであった。
FUICは完成から2年半あまりのうちに、社内のレンズ設計における収差の計算のほかに、国内の研究者のために開放され「気象の数値予報関係の研究」「金属中の不純物による電場に関する研究」「赤外分光系の収差の研究」「偏光顕微鏡における屈折像の研究」...など多くの研究に実際に使われた。この時期、こんなに使える国産コンピュータはなかった。これこそFUJICの真骨頂なのだ。
考えてみれば、コンピュータのことをまるで知らないレンズ技師が、わずか7年で日本初のコンピュータを作ってしまったのだ。岡崎の幸運は、たぶんコンピュータに直接関係ない民間会社で、すべてをまかされたことだった。しかし、それが岡崎の不運でもあった。会社の方針転換でFUJICは早稲田大学に寄贈されることになり、岡崎もレンズ技師をやめ、1959年日本電気に移ることになった。1972年日本電気を退職すると、専修大学経営学部教授に迎えられ、情報管理を教えた。1985年に専修大学を退職した。1998年小田原の病院で多臓器不全のため死去。84歳だった。
岡崎には、意外な側面があった。ローマ字運動に長年たずさわっていたのだ。子供たちが漢字を覚えるためにあまりにも多 くの時間を費やしているのに心を痛めていたようなのだ。人生の時間は限られている。漢字の練習時間をほかのことに 使えれば、もっと日本人の才能は花開くはずだという想いは、実は明治維新以来、多くの有志の胸にあった。「ローマ字国字論」 の田丸卓郎や「カナモジ論」の 山下芳太郎などがすぐに思い出される。現代では梅棹忠夫だが、みな岡崎とおなじ問題意識を共有していた。
専修大学の綿貫氏のサイトには専修大学退官の際の岡崎の色紙が添付されている。その色紙はローマ字で書かれている。
「Ikite iru aida wa Yononaka no Yaku ni tatitai mono desu.\r
「生きているあいだは世の中の役に立ちたいものです」」
岡崎文次。その技術者だましいと、なしえた業績への、われわれの評価はまだまだ足りないかもしれない。
| 「計算機屋かく戦えり」 | 遠藤諭 | アスキー | 1996年11月 | 2330円 |
|---|---|---|---|---|
| 「技術の文化史」 | 黒岩俊郎編 | アグネ | 1993年1月 | 3500円 |
| 「日本のコンピュータの歴史」 | 情報処理学会歴史特別委員会編 | オーム社 | 1998年10月 | 3500円 |
| 情報処理学会が進める日本のコンピュータの歴史を記録に残そうという事業の一環でこの本ができた。いまではこの本の続編として「日本のコンピュータ発達史」が1998年に刊行されていて、本書はそこでCD-ROM化されているもよう。 |
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| 電子計算機FUJICとその計算例 | 岡崎文次著 | 電気通信学会雑誌 | 1957年6月 | 0円 |
| Val 40(6) P128-131 昭和32年の頃の雑誌なので、国会図書館でもマイクロフィルム化されていて、かなり読みにくい状況だ。老眼鏡レンズの自動設計とか、気象の数値予報の計算とか簡単にではあるがFUJICによる計算例が紹介されている。これをみてもFUJICが研究室の中のものではなく実用マシンだったことがうかがえる。 |
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| わが国最初の電子計算機 | 岡崎文次著 | 共立出版 | 1971年12月 | 0円 |
| bit Vol 13(12) P17-23 岡崎が初めて一般向けにFUJICを説明しようとしたものだと思う。これを見ると、岡崎が単なるきまじめな技術者ではなく、かなり自由な発想とユニークな思考回路をもっていたことがわかる。説明の中に生物学の比喩や聖書の一節などがでてくるのである。 |
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| わが国初めての電子計算機 FUJIC | 岡崎文次著 | 情報処理学会 | 1974年8月 | 0円 |
| Vol 15(8) P624-632 これも岡崎がFUJICを解説したもので、bitのものと内容的には重なるが、これはどちらかというと専門家向けに解説したものでいわゆる論文形式になっているが、そこでもやはり岡崎のユニークさは発揮されている。 |
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| 電子計算機読本 | 岡崎文次著 | 日刊工業新聞社 | 1976年 | 2000円 |
| これは岡崎がコンピュータを専攻する学生さんや新入社員向けに書いたコンピュータの入門書だ。現在のパソコンの入門書などとはぜんぜん違う。論理回路の設計やブール代数のはなしなど、本当の基礎が詳しく解説されている。いまでもコンピュータというものがどういうものなのかを根本から知りたい人にとってはすごく役に立つような気がするが・・・ | ||||
| 日本人の手になる最初の電子計算機 | 最相力著 | 共立出版 | 1997年5月 | 0円 |
| bit Vol 29(5) P59-65 bit Vol 29(6) P106-112 bit Vol 29(7) P78-83 共立出版 1997/05発行 1997/06発行 1997/07発行 これはbitに連載されたFUJICの話だ。おそらく一番詳しい情報を含むのではないだろうか。そこにはFUJICのプログラミングの仕方も書かれている。 |
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