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ロバート・テイラー

Robert W. Taylor

1932 -

ゼロックス パロアルト研究所を立ち上げる

1998/10/26 掲載

通称パーク

シリコンバレーのはし、パロアルトにあるゼロックス社のパロアルト研究所(通称パーク)は、コンピュータの発展を語るときどうしてもはずせない場所として存在している。ロバート・テイラーはパロアルト研究所の創設時期に力をふるい、多くの研究者に快適な環境を提供した。

高等研究計画局情報処理技術部

ロバート・テイラーは1932年に米国で生まれた。大学では心理学を専攻していたが、1956年米国航空宇宙局(NASA)に勤務することになった。1965年にはアイビン・サザランドの後任として、高等研究計画局情報処理技術部副部長に就任した。ここでの彼の役割は、全米の情報処理技術の先端的研究者を発掘し支援するという仕事だった。手始めに、 ダグラス・エンゲルバート の研究を支援し、これは1968年にNLSとなって結実した。NLSはビットマップディスプレイにマウスまである新しいコンピュータのモデルだった。また、1966年には、J・C・R・リックライダーのネットワーク構想をヒントに世界初のパケット通信であるARPA-NET開発を手がけた。

全貌をだれよりも良く知っていた

当時はベトナム戦争の時期で、研究も次第に軍事色を強めていく中、ベトナム戦争に反対していたテイラーは、1969年に高等研究計画局を退職し、しばらくユタ大学にいたが、1970年ゼロックス社の誘いを受けて、パロアルト研究所の創設に参画することになった。この時期は他の多くの研究者も軍との共同研究を嫌って、民間の資金のもとに移った。テイラーは、高等研究計画局時代は全米のほとんど全ての非営利的なコンピュータ研究に助成金で支援していたので、彼は米国のコンピュータ研究の全貌をだれよりも良く知っていた。彼はまた、その時代、主要な研究者同士の会合や、大学卒業したての若い研究者の会合をセットアップし、彼らの交流を促したりしていたので、優秀な研究者のほとんどと面識があった。

「会合で皆が知り合いになったし、私の前でたがいに技術的な面について議論するように企画した」「私は皆が技術的な問題を意識せざるを得ないような質問をした。この質疑応答で末永く続く友情が培われた。私が難しいことを尋ねると、かれらはうち解けてお互いに難しい問題を尋ね合うようになった。そうして研究所やキャンパスに戻ると、互いに顔見知りということで、コミュニケーションは質、量ともに向上した」
「思考のための道具」ハワード・ラインゴールド著より

そのような経歴から、彼は50人以上の優秀な研究者をパロアルトに結集させることに成功したのだった。

自由に研究できる環境を意識的に創り出した

ゼロックスのパロアルト研究所(PARC)のその後の果たした役割はとてつもなく大きい。
GUIパソコンの原型(ALTO)これを見た スティーブ・ジョブスはマッキントッシュにそれを受け継がせた。今のウインドウズはそれをまた受け継いでいる。
ロカルエリアネットワーク(LAN)の原型、のちにイーサーネットとして全世界のネットワークの基幹となる。
最初の本格的なオブジェクト指向言語smalltalk、その後のオブジェクト指向の興隆の出発点となった。
こうした数々の革新技術の開発は集まった優秀な研究者によるものだが、テイラーは彼ら研究者が自由に研究できる環境を意識的に創り出したのだった。

もともと心理学者

かれはもともと心理学者だったので、1968年にリックライダー等と書いた「通信装置としてのコンピュータ」という論文でつぎのようなことを言っている。

「断然多数で最も洗練され、とびきり重要な情報モデルは、人間の心の中に存在している」
「思考のための道具」ハワード・ラインゴールド著より
参考文献および関連書籍の紹介
「思考のための道具」 ハワード・ラインゴールド パーソナルメディア 1987年12月  1854円
これも今となっては古典的な本で、コンピュータの歴史を思考という側面からみたもの、バベッジからネルソンまで多彩な顔ぶれを知ることができる。
「アラン・ケイ」 アラン・ケイ アスキー出版局 1992年3月  2400円
アラン・ケイの論文集で、「パーソナル・ダイナミック・メディア」など4編が収められている。ケイの論文を読むと、ものごとを根本からとらえなおすことの大切さがよくわかってくる。後半は簡単な評伝になっていて、写真も豊富。
「メディアの考古学」 橋本典明 工業調査会 1993年2月  2580円

 

 

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