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スティーブ・ジョブスとスティーブ・ウォズニアックのケース
この二人のスティーブの関係は今まで紹介したペアーとはだいぶおもむきが違っている。二人はアップルコンピュータの創業ということについてだけ接点をもつ。 スティーブ・ウォズニアックはもうとっくにビジネスの世界からは足を洗って、地域の学校にインターネット環境を提供したり、学校教育とコンピュータの関わりに力を入れている。ジョブスはアップルを成功させた後、自分がスカウトしたジョン・スカリーにアップルを追い出され、ロス・ペローと組んでNeXT社を興し、去年(1997年)執念のアップル返り咲きを果たしていて、まだビジネスのドロドロの世界の中にいる。
二人を引き合わせたのは、マイコンのホビイストの集まり「ホームブルー・コンピュータ・クラブ」だった。ウォッズはそこの人気者で、モス・テクノロジー社の6502チップを使って、彼が自作した基盤だけのコンピュータは話題になった。それを同じ集会に来ていたジョブスが見て、感心しビジネスにしようとしたのだった。アップルの名前はジョブスがつけたらしい。ホビイスト向けの雑誌に広告を打ち、初代アップルはホビイストの間で売れまくった。そして、かなり機能アップするその改良版をウォッズは創り始めた。独自のオペレーティングシステムをそなえ、新しいバスも設計された。その間、ジョブスは正式なビジネスにするための準備に奔走した。ジョブスはインドまで行ったヒッピーだし会社経営のノウハウはまったくなかった。彼は賢明にも自分で会社を経営しようとはせず、ベンチャーキャピタリストや、実務経験のあるビジネスマンをトップに引き抜き、ホビイストの中の優秀な人間を雇い入れた。
いよいよ本格的なビジネスとしてスタートしなければならないとき、ウォッズはまだヒューレット・パッカードに勤めていた。ウォッズはHPが気に入っていてやめたくなかった。ウォッズはNOと言った。ウォッズ自身はコンピュータを作りたかっただけで、ビジネスには興味がなかった。ジョブスは逆にコンピュータは作れなかったが、ビジネスをしたかった。ジョブスは友人たちにも頼み、ウォッズを説得し、ついにOKをひきだした。ウォッズはアップル社のためにフルタイムで働くことになった。ここでウォッズの作ったAPPLE-IIが売れなければ、話は振り出しにもどり、ウォッズはまたHPに職を得たことだろう。ジョブスはまたヒッピーに戻り放浪の旅に出たかも知れない。しかし、APPLE-IIは大ヒットした。今までこんなフレンドリーなコンピュータは無かったのである。
現在は二人は仲が悪いというか、つきあいをしていないようである。去年(1997年)ジョブスにアップルを追い出されたギル・アメリオの書いた「アップル薄氷の500日」に次のようなウォッズの告白が載っている。
「スティーブ・ジョブスと僕が、まだ若くて、一緒にぶらぶらしていたころのことです。僕らは金儲けのための手段を探していました。マイク・マークラと知り合う前、つまり、ガレージでアップルを設立する前に、スティーブは、アタリ社のノーラン・ブッシュネルから電子玩具の回路を作る仕事をもらってきました。回路ボードを設計してつくり上げれば、1000ドルもらえるという約束でした。ノーランはとても急いでいました。納期までの時間がすごく短かったんです。何日か徹夜で設計を話し合わなければいけませんでしたが、僕は納期に間に合わせてボードを完成させ、スティーブに渡しました。彼はそれを持ってアタリ社に行きました。戻ってきた彼は、僕に300ドルを手渡しました。「1000ドルもらえる約束じゃなかったけ?」ときくと、「600ドルに値切られちゃったよ。でも、ゼロよりはましだと思ってさ」と言いました。僕はなるほど」と答えました。何年もあとになって、、僕は、かつてのアタリ社員から話を聞き、アタリが本当はスティーブにきちんと1000ドル支払っていることを知りました。開発したのは僕なのに、彼は自分で700ドル取って、僕に300ドル渡したんです」
それ以来二人の仲はとぎれてしまったようだ。
| 「アップル薄氷の500日」 | ギル・アメリオ/ウイリアム・L・サイモン | ソフトバンク | 1998年8月 | 2400円 |
|---|---|---|---|---|
| 「ハッカーズ」 | スティーブン・レビー著 古橋芳恵/松田信子訳 | 工学社 | 1987年3月 | 2575円 |
| スティーブ・ジョブスの道 | ランドール・ストロス | エーアイ出版 | 1995年1月 | 2500円 |
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