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David N. Cutler
1942 -
ウインドウズNT開発のプロジェクト・リーダー
デービッド・カトラーは1942年米国ミシガン州のランシングで生まれた。 父は自動車工場の工員をしており、あまり裕福な家庭とはいえなかった。 彼は10歳の頃から働いてお金をかせいだ。頭は良く、 フットボールの選手だった彼はかなりの自信家として成長した。 大学に入ってからもフットボールの選手を続けたが、骨折で引退し学業に専念。 オリベット大学の工学部を1965年に卒業した彼は、 まだコンピュータソフトウエアには関心がなかったのでGMのプログラマの仕事を断り、 デュポンに入った。しかし、皮肉なことに、ここでプログラミングを学ぶことになったのである。 プログラミングを知ると自分がその方面に意外な才能のあることに気づき、コンピュータに熱中した。 デュポンではDECのPDPでソフト開発をし、やがてかなりのエキスパートになっていった。 カトラーはコンピュータで生きていく決心をし、1971年DECに入社した。
DECに入るとすぐに彼の優秀さが知れわたり、PDP-11のOS開発に参加し、高く評価された。 彼を最も評価していたのはPDPシリーズの設計者である ゴードン・ベルで、 PDPの次世代マシンのVAXのOS開発ではカトラーをプロジェクトリーダーに押した。1975年から始まり、1977年に完成したこのプロジェクトでカトラーはまた名をあげた。
カトラーがベルに独立したいと相談を持ちかけたとき、ゴードン・ベルはこう答えたそうだ。
「自分のチームをつくれ。だれでも好きな人間を連れていけ。どこへ行ってもいい。なにをしてもいい。資金はDECが出す。必要な金額を言ってくれれば、会社が払う」
1981年ベルの提案にのって自分のラボをつくった。 しかし1983年に肝心のベルがDECを去ってしまい、 1985年頃からカトラーは仕事を干されたかたちになってしまっていた。
1988年頃カトラーが干されているという噂は ゲイツの耳にまではいった。OS/2の開発でIBMともめていたゲイツは、独自にOSを作る腹を決めていた。インテルのチップから解放された移植性のある本格OSだ。ゲイツにとってカトラーの経歴はうってつけだった。彼はカトラーに大量の株式オプションを提示し、カトラーを彼の部下と共に引き抜いた。ウインドウズNTを開発するために。
WindowsNTの基本設計は1988年暮れから始められた。当初の計画では1991年3月に完成予定だったが、スケジュールは延々とのび、最初のバージョンが出荷されたのは1993年7月のことだった。足かけ5年の歳月のあいだに、OS/2の開発からマイクロソフトは手を引き、 Windows3.0とWindows3.1がすでに出荷されていた。 WindowsNTは当初は重く遅く正直あまり評判はよくなかったが、リリース後も改良が続けられ、1994年のWindowsNT3.51になって、大手のユーザーも積極的に導入を行うようになった。今ではサーバーOSの半分近くのシェアーを持つまでに浸透している。
WindowsNTの最初のバージョンは560万ステップにおよぶコードが書かれたという話だ。その想像を絶する開発の内輪話は参考文献で読んでほしい。 NTの開発には当初OS/2環境が使われていたが、NTのカーネルの部分ができてくると、 NTの開発にNTを使うようにしたらしい。こうするとイヤでもバグを直さざるをえないからだ。このことをドッグフードを食べるといったらしい。それと、毎日その日までのバージョンをビルドするということをカトラーはやった。こうしたことは我々にも非常に参考になる。
| 「闘うプログラマー 上」 | G・パスカル・ザカリー | 日経BP出版センター | 1994年12月 | 1400円 |
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| ビル・ゲイツの野望を担った男達 | ||||
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