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尾崎憲一

Ozaki Kenichi

1967/2/1 -

独立系プロバイダの草分け:ベッコアメの創業者

2007/08/17 掲載

1994年のインターロップ

1990年アメリカでインターネットの商用使用が解禁され、ついで日本でも1992年に商用での使用が可能になった。それはバブルがはじけた直後だった。日本の商用インターネットはバブルの崩壊とともに産声をあげたのだった。1993年末に最初のプロバイダIIJがインターネット接続サービスを開始し、次の年の7月に日本で初めてのインターネットの見本市インターロップが開催された。尾崎はこの見本市を心待ちにしていたのだ。尾崎は当時東芝の社員だったが、会場をひととおり見て回ったあと、これなら自分でもできると思い、会場ですぐに起業を決意した。ちょうどこの会場でインターネットマガジンという日本で初めてのインターネット専門誌が創刊になることを知った尾崎はすぐに行動に移った。

「自宅までたった10分の道程を歩く時間がもったいなくて、駅の公衆電話からその出版社に電話を入れた。先方が出るなり、『創刊号に広告を出したいんだけど、まだ間に合いますか』というと、『失礼ですけど、ご商売は何をされていますか』といわれ、『会社はこれから作ります』と答えた」
「ベッコアメの奇跡」から

コミュニケーションハングリーな世代

尾崎憲一は1967年に千葉県松戸市で生まれた。この年は丙午(ひのえうま)だったそうで、尾崎の証言によると極端に同級生が少なかったそうだ。その頃、日本はまだ迷信の中で生きていた。そのためかどうかわからないが、コミュニケーションハングリーだったと本人は言っている。そういえば、2ちゃんねるのひろゆきも同じ年の生まれだ。
中学に入るとインベーダーゲームが流行し、それにはまった。このゲームは当時タイトーの西角友宏が開発した初めてICチップを使ったゲームで、宇宙船が雨あられと攻撃してくるのをかわしながらやっつけるという、今から見ると単純なゲームだったが、これが大流行し、当時は本当にどこの喫茶店にも置いてあって、100円でけっこう遊べたものだった。尾崎はその後、パソコンでゲームができることを知り、スーパーの展示品のパソコンで、雑誌に紹介されているプログラムをタイプインしては遊んでいたらしい。自然とそこでプログラミングとはどういうものかを覚えていった。

秋葉原通いの高校時代

たぶん実家が電気工事屋だった関係で、1983年に水道橋の東京電機大学付属高校に進学すると、尾崎は秋葉原で途中下車するようになった。この頃の秋葉原は、例えば前の年に鈴木慶のソフマップがオープンしたり、PC9801が発売されたりして、電気街からパソコン街へ変貌しつつあるときだった。尾崎は秋葉原に入り浸るうちに自分のパソコンが欲しくなり、高校一年のときシャープのMZ-80Bを買った。当時27万円もしたらしい。そしてゲームプログラミングを本格的にやりだした。尾崎が普通の秋葉原オタクとちょっと違っていたのは、彼がコミュニケーション志向を常に持っていたことかもしれない。彼がコンピュータをいじったり、ゲームを創ったりするのも、どちらかというと、それを素材にしてコミュニケーションを楽しみたかったという側面が強かったようだ。

やってきた通信自由化とダンボネット

1985年4月1日改正電気通信事業法が施行され、通信の自由化が遅まきながら実施された。それまで電気通信は電電公社が独占していたが、この日から民間の企業にも通信事業の認可が下りることになったのだ。前後して公衆通信回線、つまり電話回線に音声のほかにデータを乗せることが可能になり、モデムが一般に市販されるようになった。ついでにモジュラージャックが使えるようになり、電話機も電電公社支給の真っ黒な電話機は急速にお払い箱となった。通信自由化がなると、堰(せき)を切ったように商用ネットサービス、いわゆるパソコン通信のサービスが始まった。テレスターを最初に、アスキーネット、JALNET、PC-VAN、そしてニフティサーブなどこの後パソコン通信の黄金時代を担うメンバーが85,86年のうちにスタートしている。この頃のパソコン雑誌にはパソコン通信のやり方や、BBS局の作り方などを解説したものが多かった。尾崎もさっそくモデムを買い、友達と通信の実験をやりながら、ついに草の根BBS「ダンボネット」を開局した。そのとき尾崎はまだ高校三年生だった。

広まる前のインターネットに触れる

1985年尾崎は高校からの編入で東京電機大学理工学部の建設工学科へ進んだ。大学ではアルバイトや車の免許や同棲やいろいろなことに手をだしたようだが、ダンボネットだけはなぜか続けていた。尾崎は結局、大学を1年留年して1990年に卒業、東芝に入社した。東芝では文教というセクションで、全国の大学などにコンピュータシステムを納入するSEとして働いた。これが尾崎にとって貴重な体験となったのだ。というのは、90年当時はまだインターネットの商用使用は認められていず、もっぱら学術目的に使われていた。つまり大学や研究機関どおしを結んで、学者や研究者が使っているものだったのだ。尾崎はUNIXサーバーの納入、メンテナンス作業を通してひそかに使われていたインターネットに接し、いやでも実力を付けていった。

「あるとき、UNIXを納入して設定するという仕事があった。僕はそれまでUNIXにさわったことがなかったので、当然設定するのも初めてである。それは信じられないような試練だった。なかなかうまくいかずに、設定しながら脂汗をかいていると、横に担当の先生が来て、おもむろに東芝に電話をかけ始めるのだ。『東芝さん、おたくはこんなにできの悪い技術者よこすんだね。知らなかったよ』僕のとなりで聞こえよがしに上司に電話しているのである。そんなくやし涙がでるようなことは、まれではなかった」
「ベッコアメの奇跡」から

最初はこんな状態だったが、数年経つと、尾崎はインターネットとUNIXのエキスパートになっていた。そしてまさにそのとき、インターネットは爆発的な普及期を迎えようとしていたのだ。そして冒頭のインターロップにつながるのである。尾崎がこれなら自分にもできると思ったのも至極当然だった。

ベッコアメインターネットのスタート

1994年7月21日、仲間3人とプロバイダを始めた。年会費3万円のみという当時としては破格に安い金額だった。もともと大手のプロバイダの料金の高さに憤慨して始めたのだから、安くすることは尾崎としては当然だった。頼みの綱はインターネットマガジンの広告だ。最初のうちはぼちぼちという感じだったが、しばらくしてベッコアメはつながりやすいという評判が立って、雑誌なども好意的に紹介してくれたりして、会員数は飛躍的に伸びていった。これはサーバーのモデムの設定や通信機器の選定など、基本的なところのノウハウを尾崎がダンボネットや東芝で蓄積していたためだった。

「けれども、僕らはパソコン通信をずっとやってきたネットワークオタクだから、それまでに何度も『あーだ、こうだ』といいながら設定を変え、失敗をくり返す中で行き着いたモデムの設定の仕方というのがあった。小さなことなんだけれど、マニュアルにはないワザのようなものを、知らず知らずのうちに身に付けていたのだ」
「ベッコアメの奇跡」から
「つながりやすかった理由はもう一つある。ありとあらゆる機材を全世界のメーカーから取りよせて、徹底的にテストを重ね、いいものだけ使ったのである」
「ベッコアメの奇跡」から

半年後、ベッコアメは株式会社化し、翌年の春、日経新聞のプロバイダ特集でベッコアメがユーザー数日本一となった。しばらくして、お世話になった東芝を辞め、尾崎は本格的に社長業に専念することとした。

参考文献および関連書籍の紹介
「ベッコアメの奇跡」 尾崎憲一 廣済堂出版 1996年8月  1300円
本人の書いた本なので、やはり本人でないと書けない部分がたくさんあり、その意味では大変おもしろい。
「インターネットビジネスは楽じゃない」 尾崎憲一 データハウス 2000年12月  1500円
これは前半部分があっとうてきにおもしろい。ベッコアメのサーバーに入り込んだハッカーの身元を苦労して割り出していく話で、「カッコウはコンピュータに卵を生む」の話と同じくらいスリルがある。
インターネットソースの紹介
ダンボネット・システムズ(別ウィンドウ)
http://www.dumbonet.co.jp/

 

 

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