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久多良木健

Kutaragi Ken

1950 -

プレイステーションの生みの親

1999/10/12 掲載

話題を独占したプレステ2の発表

今年のゲーム界の話題はなんといってもプレステ2だ。そのベールがはがされたのは、 1999/02/15から米国サンフランシスコで開催された  1999IEEE International Solid-State Circuits Conferenceの2日目だった。 2月16日SCEと東芝が共同開発したスーパースカラー・マイクロプロッセッサが 技術者から発表されたのだ。この新型プロセッサが次世代プレステ用ではないかとは すぐにうわさされたが、1999/03/02SCEが次世代プレイステーションの仕様を公開 したことで真実となった。このあとすぐソニー本体がSCEを主軸にする大規模な機構改革を発表し、 プレイステーションの生みの親である久多良木氏はSCE社長に昇格した。 そして1999/09/13ゲーム・ショーの前にSCEは都内のホテルで招待者にプレステ2を正式発表。 価格は39800 2000年3月4日に発売予定となった。

ソニー本体の希望の星

1994年年末のプレステ発売からわずか5年でSCEはソニーの経営戦略の主軸になるまで成長した。いまでは久多良木氏の1つ1つの考えがソニーを動かす影響力をもっている。将来のソニー社長ではと水をむけられることもあるようだが、本人は次のように言っている。

「ソニーの社長になりたいとは思わないし、いやですね。自分のつくった会社ではないですから。SCEは僕がつくった会社です」
「人間発見」1999/07/30日経新聞夕刊より

根っからの商売人の素養

久多良木健は1950年日本国の東京都江東区で生まれた。 実家が印刷業で久多良木氏も子供のころから家業を手伝っていた。 印刷業の忙しさはそのころも同じで、深夜まで働いたが、逆に働けばそれだけ収入になる というビジネス感覚を早くから身につけていった。中学のころからエレクトロニクスにはまり、 自分でアンプやFMラジオを制作し秋葉原に通った。1969年高校を卒業して 2浪後電気通信大学電気通信学部電子工学科(注)に入った。大学を卒業したら家業を継ぐつもりでいたが、 父親の「すきなことをやれ」の一言でエレクトロニクスの分野に進むことにした。 就職するなら絶対ソニーと決めていたそうだ。

「初めて就職を考えた時、意中の企業はソニーしかなかった。学閥・閨閥(けいばつ)がなさそうだし、技術主導で、今でいうベンチャービジネスだった。商売、ビジネス志向の僕は、ソニーなら自分なりのキャリアを積むことができると感じました」
「人間発見」1999/07/27日経新聞夕刊より

デジタルの世界へ

1975年電通大を卒業すると、希望通りソニーに入社した。最初LEDバーグラフや2インチ・フロッピーなどを手がけた後、厚木の情報処理研究所に移りデジタル信号処理などの研究に没頭した。そして初代ファミコンが登場してゲーム機の可能性に目を開いたのだった。久多良木氏はPCM音源やディスクドライブの供給を通して任天堂と接触していった。

「コンピュータはビジネス用として発展してきた。別の意味のコンピュータ世界をつくりたいというのが僕のエンジニアとしての夢」
「人間発見」1999/07/26日経新聞夕刊より

幻におわったプレイステーション試作機

久多良木氏はスーパーファミコンにCD-ROMをつけたゲーム機を構想し、1989年10月ころから設計をはじめた。1990年1月には任天堂と正式に開発契約を結び、発売を目指して開発を進めていた。しかし翌年の1991年になって任天堂がオランダのフィリップス社と裏で交渉していることがわかり、事実1991年夏の米国シカゴのエレクトロニクス・ショーでソニーが任天堂と提携したゲーム機を発表した翌日、任天堂がそれを否定し、フィリップスと開発することを発表して大混乱となった。ソニーはその後1年近く任天堂と調整交渉を続けるが、任天堂とフィリップスの提携は実体がなく単に時間稼ぎをされているだけとわかって1992年5月ついに交渉は決裂した。

独自フォーマットへの決断

この事件はソニーにとっても久多良木氏にとっても非常に大きな教訓となった。ソニー内部ではゲーム機事業からの撤退論も強かったが、久多良木氏はここでくじけることなく強引に経営トップに独自フォーマットでのゲーム機事業をみとめさせたのだった。1992年の経営会議でプレイステーション開発を決定し、翌1993年ソニーは家庭用ゲーム機に進出することを公式に発表した。1993年11月にはそのための実行会社としてソニー・コンピュータエンタテインメントが設立され、久多良木氏は取締役開発部長になる。そして1994年12月3日プレイステーションは発売された。プレステは名主任天堂やライバルのセガを追い越して成功した。1999年時点で5500万台の販売実績があるそうである。

プレイステーションは単なるゲーム機です

プレステ成功の理由は今になってみればかなり明瞭だ。いくつかあげられる理由の、その筆頭にくるのはプレステを多くの機能を持たせられるのにもかかわらず「単なるゲーム機」と位置づけたマーケティング戦略だ。同じころ松下電器の3DOやNECのPC−FXがゲーム市場に参入したが、彼らは音楽も聴けるし、「ゲームもできます」といっていた。そして「ゲームだけをやるんです」といっていたプレステが生き残った。これは製造業のなかで唯一コンシューマ(一般消費者)を知る、ソニーならではの話なのである。

最大のライバルは携帯電話

久多良木氏は将来の見通しについて、次のように語っている

「五、六年後「プレステ3」を出すころでしょうね。僕は最大のライバルは携帯電話だと考えています。人間の最大の娯楽はコミュニケーションだからです。そのころは携帯電話の形態もかなり変わっているでしょう。挑戦のしがいがありますよ」
「人間発見」1999/07/26日経新聞夕刊より

このあたりの久多良木氏の見識にはまことに驚くばかりだ。 "人間の最大の娯楽はコミュニケーションです"と、かるく言える人は何人もいると思うが、その言葉を中心にして戦略を組めるひとは久多良木氏をおいて他にいないのではないか。戦略家としての久多良木氏のうしろにどっしりとした日常性を感じる。プレステ2は成功するだろう。

2007/11/06 追記

プレステ2は成功したが、プレステ3が不調だ。ソフトがないのに、そんな高いマシンを買ってどうしろというんだ、というのが正直な感想だ。あまりにハード志向でありすぎ、ゲーム機の原点を忘れてしまっていると思う。

思い返して見れば、プレステ2の頃は太陽のしっぽやパラッパラパなど斬新なゲームを自由に作れるように奨励していた。ゲームに新しい活力を呼び込んだと思う。だからこその成功だったはずだ。

「僕は最大のライバルは携帯電話だと考えています。人間の最大の娯楽はコミュニケーションだからです」8年前に久多良木氏が言っていた言葉を真剣にとらえたのは、むしろWiiのほうだった。

任天堂はゲームボーイの意外な成功から学んだ教訓をしっかり生かしてきている。それはポケモンというキラーソフトがきっかけだったが、ハードウエアではなく、コミュニケーションを育てるコンテンツが主役なのだというごくあたりまえのことを、きちんとやってきている。これは本来プレステ3が進む道だったはずだ。

しかし、いまさらどう言ってもしようがないが、プレステ3の不調はソニー本体にまで影響し、久多良木氏の挫折となってしまった。この機会をプラスにとらえて、また原点に戻って欲しいと思う。

参考文献および関連書籍の紹介
人間発見 1999/07/26〜30日経新聞夕刊 日本経済新聞社 1990年7月  0円
プレステがソニーを引っ張る フォーブス日本版1999/09号 1999年9月  0円
「ソニーの革命児たち」 麻倉怜士著 IDGコミュニケーションズ 1998年10月  1700円
―「プレイステーション」世界制覇を仕掛けた男たちの発想と行動
技術に精通した「商売」人 週間東洋経済1999.4.17号 東洋経済新報社 1999年4月  570円
インターネットソースの紹介
NEオンラインのプレステ2紹介ページ(別ウィンドウ)
http://techon.nikkeibp.co.jp/NEWS/ps2.html
移行前のコメント
2004/01/22
PSを「単なるゲーム機」と位置づけた戦略は、任天堂の山内社長がファミコンを「単なるゲーム機」と断言してMSXパソコンと対抗したときの戦略と同じです。
ファミコンに圧倒されていたメーカーが打倒任天堂の旗印の下にMSXという共通規格の8ビットパソコンを出したのですが、その際に山内社長は「ファミコンはコンピュータではなくてゲーム機である」とことあるごとに断言していました。
 当時私はゲーム会社でアルバイトでプログラムを作っていて、私がMSX用のゲームを作っている隣では同僚がファミコン用のゲームを作っていました。
筆者より: そうですね。任天堂は確かに単なるゲーム機路線を当初から貫いていますね。

 

 

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