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Miyamoto Shigeru
1952 -
ドンキーコング、マリオブラザースの原作者
何年か前、元ビートルズのポール・マッカートニーが家族連れで日本公演に来たとき、 ポールの息子がマリオの作者宮本を知っており、マッカートニーのコンサートに招待され、 ポールの息子にはサインしてあげたという話が伝わっている。 マリオは世界中で数百万本売れており、その作者としての宮本の名前も世界中に知れ渡っている。
宮本茂は1952年に日本国の京都で生まれた。小学校のころは人形つくりになりたかった。 中学では漫画を書き始め、漫画部をつくった。高校をでて一浪で金沢市立美術工芸大学に入学、 工業デザインを専攻した。大学ではギターを始め、バンド活動もした。 1977年に、地元京都の任天堂に入社。キャラクターデザインからゲーム制作まで 首を突っ込むうちに1980年彼の企画でゲームがつくられることになった。 1981年6月に発売され、大ヒットとなったドンキーコングである。 その後はゲームデザイナーとしての本領を遺憾なく発揮し、1983年マリオブラザース、 1986年ゼルダの伝説、1992年星のカービィなどのヒット作を出し、 (注1)そのほとんどがシリーズ化されている。98年11月には64版のゼルダの伝説がでる予定である。
「ゼルダの伝説、時のオカリナ」は予定通り発売され大好評だ。宮本氏はこのプロデュースで第13回マルチメディアグランプリの会長賞を受賞している。
以下、多摩豊著の「テレビゲームの神々」に、 彼のゲーム制作の基本にふれる部分が記述されているので少々長くなるが引用したい。
「チャンスは不意にやってきた」「彼にとって初めてコンセプト部分から作り始められるゲームの仕事だった。コンセプトを形にすることを自分の目標にしていた彼は是非ともこの仕事を成功させようと意気込んだ」「彼はここで自分のスタイルで仕事をやり通すことを決心し、」「ほかの一切の雑事から離れて仕事だけに専念できる体制を整えた」「彼は机を整理し、大きな紙を壁に貼った。そして思いついたことを次から次へと小さなメモに書き込むとそれをその大きな紙へ貼り、順番に並べていった」「そうしていくうちに、漠然とした考えの山から整理されたコンセプトが導き出されていった」
「大きな紙の上でテーマとなっていったのは「なぜもう一度そのゲームをやる気になるのか?」ということだった。彼はさまざまなゲームを自分で試してみておもしろいと思う理由は何かという問いに対して数多くの答えを考えた」「彼は、自分の経験や他人がプレイする様子を思い浮かべながら考え続け、一つの結論に達した。何をするべきかをよくわかっており、かつ、なぜ失敗したかがよくわかっていること。これがプレイヤーが同じゲームを何度も繰り返す理由だ。彼はそう考えた。そしてこの「何をするべきかがわかっており、なぜ失敗したかもよくわかっている仕掛け」をゲームの中に持ち込むことを決めたのである」
「テレビゲームには限界があった。グラフィックに使える色の数、キャラクターを描くドットの数、そして、コンピュータのスピード。つねにこれらのハードの限界がつきまとった。いくつかのゲームをつくるうち彼はこの限界を何度も思い知らされることになった。アイデアレベルでどんなにすばらしいものでも、実現できなければまったく意味はない」「かれは限界を知った上でのデザインの重要性を身にしみて感じた」「彼が学んだもう一つの大事なポイントは、いかにしてアイデアをプログラムにするかということだった」「プログラムは最終的には画面上に絵として表現される。ゲームをデザインするときはその絵としての効果を十分に理解している必要があった。つまりあるアイデアをゲームに活かすためには、それを画面にどういった形で表現するか、どのような動きであらわすかをまず絵として表現し、その上でプログラムできる形、すなわち数式に置き換えなければならないのである。アイデアがあること。それを描けること。そして、機械やプログラムに何できて何ができないかを知っていること。いいゲームをつくるには、これだけのことがわかっていなけらばだめだ」
| 「テレビゲームの神々」 | 多摩豊 | 光栄 | 1997年2月 | 1500円 |
|---|---|---|---|---|
| 副題 RPGを創った男たちの理想と夢 | ||||
| 宮本茂の大特集 | 秋号 ザ・ロクヨンドリーム96/11号 | 毎日コミニュケーションズ | 1996年9月 | 480円 |
| 「スーパーヒットゲーム学」 | 飯野賢治 | 扶桑社 | 1998年6月 | 1400円 |
| ゲームの天才 | じゅげむMOOK | リクルート | 1998年4月 | 933円 |
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