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David Packard
1912 - 1996
シリコンバレーの夜明け:ヒューレット・パッカード共同創設者
デビッド・パッカードはその自伝の中で、企業の責任について次のように述べている。
「1940年代末期に、さまざまな業界や組織の人々が参加する会議に出席したことがある。そこで、企業には株主のために利益を上げるほかに責任があるのかという話し合いが始まった。私は企業には、従業員、顧客、納入業者、社会全体に対する重要な責任があるという意見を述べた。 大部分の人がこれに反対したことに、私は驚き、失望した。彼らは、企業の責任は株主のために利益を上げることだけだと考えていたのである」
ヒューレット・パッカードがその先進的な経営スタイルで知られているのは、二人の創業者の先進性によるのである。
デーブ・パッカードは1912年米国コロラド州プエブロで生まれた。少年時代は西部開拓地の名残を残す大草原を何時間も歩き回った。小さいときから科学に興味を持ち、模型や実験装置を作って遊んだ。12歳の時にはかなり高度な真空管ラジオを組み立てて、ハイスクールに入るころにはアマチュア無線局をもっていた。1929年カリフォルニアの知人宅へ旅行した際、スタンフォード大学を案内してもらい、強い印象を受けた。小学校の頃から技術者になりたいと思っていたので、電気工学を志望して運良く入学を許された。
1930年秋スタンフォード大学に入学し、すぐにビル・ヒューレットと知り合いになった。彼とはその後ずっと厚い友情が続くことになる。大学卒業時、1934年当時はまだ大恐慌の影響から抜け出せず、就職先を見つけるのも大変だったが、GEから採用通知が来たのでビルと別れて就職した。ビルは大学院に進んだ。1938年にスタンフォードの特別研究員としてカリフォルニアに戻り、以前から話し合っていた事業計画について取り組みを再開した。今ではシリコンバレー発祥の地として知られているパロアルトのガレージを仕事場に、ハーモニカ用の調律器や可変周波数モーター制御装置など雑多な仕事をこなしていく内に自信がわいてきた。また、二人の才能が補完的なことも、こういった電気製品の設計製造には役立った。ビルは回路設計が得意で、デーブは製造工程が得意だった。
1939年デーブとビルはパートナーシップ契約をし、正式に事業化した。会社名はコインを投げて決めた。ビル・ヒューレットの作ったオーディオ発信器がヒューレット・パッカードの製品第一号となった。オリジナルモデルをポートランドの技術者会議で披露したとき、ウォルト・ディズニーの技術者が強い関心をしめし、結局8台を受注した。彼らの事業は最初から利益をあげたのだった。
ヒューレット・パッカードはシリコンバレーの第一号であるだけでなく、従業員を大事にするその独特の経営スタイルは、HPウエイと呼ばれ、その後の多くの企業の手本となっている。
二人の力:HPウエイと厚い友情もご覧ください
| 「HPウエイ」 | デビッド・パッカード | 日経BP出版センター | 1995年10月 | 1600円 |
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| 副題 シリコンバレーの夜明け | ||||
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