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James H. Clark
1944 -
稀代の起業家:SGI、ネットスケープの設立者(読者リクエスト)
スティーブン・スピルバーグ監督の1993年の映画「ジェラシック・パーク」を覚えているだろうか。樹液に閉じ込められた蚊から、太古の恐竜の血を得て、遺伝子操作で南海の孤島に復活させたという恐竜をめぐる冒険譚だが、恐竜たちがまるで生きているように映画に出てくるのだ。もちろんぬいぐるみではない。いわゆるCG、コンピュータ・グラフィックスが使われているのだ。このCGの製作にシリコン・グラフィックス社(SGI)製の画像処理専用コンピュータが使われていた。今ではSGIのオニキス(ONYX)という専用コンピュータが映画やアニメーション製作には不可欠になっている。ハリウッドの映画産業はこのCG技術を活用することで映画の新しい時代を築くことができた。そのシリコン・グラフィックス社を興したのは、スタンフォード大学でコンピュータ科学を教えていたひとりの準教授だった。彼の名はジム・クラーク。今ではだれ一人として彼を知らぬものはいない。少なくともコンピュータに何らかのかかわりがあるかぎり。
ジム・クラークは、1944年米国テキサス州プレインビューで生まれた。プレインビューは文化的な刺激にとぼしい田舎町だったらしく、家は貧乏だった。かれの父はアル中で酔っ払うと母によく乱暴した。両親は彼が14歳のとき離婚した。父親が追い出されるようなかたちだった。しかし父親はその後も家族に嫌がらせをするような人間だったらしく、16歳のとき、クラークは父と決着をつけた。クラークは泣いて帰ってきたというその決着の顛末はわからない。しかし、それ以降、父は嫌がらせをしなくなったという。そして17歳になって、クラークは高校を退学になった。この仔細も分からない。ただ、この苦難の時期を経て、クラークは一生をつらぬくある決心をしたに違いない。
高校を退学になると、クラークは家を出てルイジアナ州で海軍に入った。クラークにとって海軍は新天地だった。いままでぜんぜん意欲が湧かなかった勉強が、海軍の夜間学校で学ぶうちに俄然好きになったのだ。とくに、自分が数学に才能があることを見いだして、なおさら勉強にはげんだ。海軍はクラークの才能を認めて海軍在籍のままチューレーン大学の夜間部に通わせた。成績は常にトップだった。クラークは兵役を終了すると、とりあえず故郷にもどりテキサス工科大学に入学した。しかしクラークは学生結婚したので、昼間は働く必要があった。都合よくルイジアナ州のボーイング社で仕事が見つかり引越した。大学もルイジアナ州にあるニューオーリンズ大学に移籍した。
ボーイングでの仕事はコンピュータのプログラミングだった。GE235を使って、サターンロケットのコンピュータ制御用ソフトの開発を行なった。1970年にニューオーリンズ大学を卒業し、そのまま大学院に進んだ。1971年、物理学の修士号を取得した。クラークは物理学者になるよりも、コンピュータの将来性を買って、専攻をコンピュータ科学に鞍替えし、特にコンピュータ・グラフィックス(CG)を専門とすることにした。
CGの分野で当時もっとも進んでいたのがユタ大学だった。国防総省高等研究計画局(ARPA)の豊富な資金をバックにアイヴァン・サザランドなど一級の研究者がいた。ちなみにインターネットの基礎を築いたのもARPAの資金である。クラークはユタ大学大学院博士課程に進み、サザランドに師事、バーチャル・リアリティの研究を行なった。クラークはユタ大学で第一級の研究者と肩を並べることで自分が世界に通用する人間であるという自信をもった。彼の研究目標は、CGの画像をリアルタイムで動かすことだった。そのための専用回路をかれは作り出した。当時は一部屋を占有する大きさだったが、これがクラークのオリジナリティを凝縮したものとなった。この研究が後に花開くことになるのである。1974年ユタ大学からコンピュータ科学の博士号を取得した。
ユタ大学大学院修了と同時にカリフォルニア大学サンタクルツ校に準教授の職を得た。この期間はクラークにとってはフラストレーションがたまった時期だった。ユタ大学での自分の研究テーマが中断したかたちになってしまったからだ。1978年に職を辞し、その後、カリフォルニア大学バークレー校やニューヨーク州立大学などを短期間転々としたあと、1979年スタンフォード大学準教授に就任、コンピュータ・システム・ラボラトリに勤務することとなった。
クラークはユタ大学で部屋いっぱいになった論理回路を、LSIチップにすることを目指し、実用化に向けて走り出した。スタンフォード大学はそうした環境を提供してくれたのだった。クラークは自分のアイデアを特許にし、それを武器にビジネスの世界に乗り出そうと考えた。そして優秀な5人の院生を口説き落とした。彼らの協力で完成した画像処理専用の論理回路はジオメトリー・エンジンと名づけられた。最初はコンピュータメーカーにそれを売り込もうとしたが、画像処理専用回路の意義を理解してくれる会社はひとつもなかった。まだ、時代は古色蒼然としたメインフレームの時代だったのだ。
クラークは自分たちの会社を作ることにした。1982年5人の学生を技術的な核としてシリコン・グラフィックス社(SGI)を設立した。その後、冒頭の話につながるわけだが、SGIは著しい成長をとげ、コンピュータ・グラフィックスの分野ではトップ企業となった。創業時には、”それ何に使えるの?”と言われた画像処理専用コンピュータは、10年もしないうちにハリウッド映画産業にとって必須アイテムになった。それだけでなく、日本のゲーム機、任天堂のNINTENDO64、ソニーの初代プレイステーションなどにもジオメトリー・エンジン、またはそのカスタム版が使われているのである。ジオメトリー・エンジンとは、まさに今のテレビゲーム機がするように、画像を好きなように動かせたら、というクラークの夢が作り出したものなのだ。
ジム・クラークは12年後の1994年にSGIを去り、インターネット爆発前夜に、マーク・アンドリーセンという若者とネットスケープ・コミュニケーションズ社を設立することになる。インターネット・ブラウザを武器としたビジネスだった。これも、時期を得たことと若者の力をうまく引き出したことで、大成功を収めた。このネットスケープの成功がジム・クラークをカリスマ起業家とした。その後も、クラークはヘルシオンなどの起業に関係した。ジム・クラークは名声という意味でもお金持ちという意味でも十分すぎるほどの大成功をおさめたが、彼自身はそれに満足している様子はない。もっともっと影響力のある、もっと金持ちにという想いに駆り立てられるように見える。起業家ジム・クラークから研究者ジム・クラークに戻ってほしい気もするのだが。
余談だが、クラークはチャールズ・バベッジの階差エンジンのエンジンという言い方が好きだったそうで、ジオメトリー・エンジンの名はコンピュータの父バベッジに由来している。
| 「起業家ジム・クラーク」 | ジム・クラーク/オーウェン・エドワーズ著、水野誠一監訳 | 日経BP社 | 2000年2月 | 1800円 |
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| 僕の一番尊敬するジム・クラークの話が載って感動します。rn貧乏人から出たIT偉人。僕の人生の目標です。彼の話から僕もSEを目指しました。彼の人生には、「いつからでも出発点」という、すばらしさを感じます。 | ||||
| 「ニュー・ニュー・シング」 | マイケル・ルイス著 東江一紀訳 | 日本経済新聞社 | 2000年8月 | 1800円 |
| マイクロソフトとは違うソフト会社であり続ける | 日経マルチメディア | 日経BP社 | 1996年3月 | 0円 |
| 「新電子立国6 コンピュータ地球網」 | 相田洋/矢吹寿秀著 | NHK出版 | 1997年3月 | 1500円 |
| NHKスペシャルとしてテレビ放映された番組を本にしたもので、番組では聞き流した情報が文字や写真となって定着しているので、収録したビデオとあわせて見ると非常によくわかる。こうした番組は民放ではできないので、とりあえずはNHKにも存在意義があるということだろう。 | ||||
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