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Mori Kenichi
1938 -
初めての日本語ワープロJW-10の生みの親
2000年6月22日の日経新聞朝刊に小さな1つの記事が載った。そこには「東芝、ワープロ事業撤退」とあった。1978年に東芝が日本初のワープロ専用機を発表して以来、日本で独自の発展を遂げた日本語ワープロ専用機は、パソコンの普及でその使命を終えつつあったのだ。最後に残ったシャープも翌年撤退を決め、ワープロ専用機は店頭から姿を消した。しかし、人々が日本語入力をしなくなったわけではない。それどころか東芝JW-10が残した「カナ漢字変換」という入力方式はすっかり定着し、もはや専用機を必要としないレベルまでに成熟したのだった。社内の抵抗勢力を抑えて、日本語ワープロを最初に世に送り出したのは、東芝のエンジニアだった森健一だ。
森健一は1938年に東京に生まれた。当時の日本は、日中戦争の泥沼から米国との戦争に入ろうとしていた時代だった。戦争中、森は群馬県に疎開していたらしい。戦後に東京に戻った。森少年は学力優秀だったのだろう、麻布高校から東大に進んでいる。当時の進学エリートコースだ。1962年に東京大学工学部応用物理学科を卒業し、すぐに東京芝浦電気に入社した。現在の東芝である。中央研究所(後の総合研究所)に配属になった森は、磁気コアメモリーの開発を命じられた。しかしこの分野はすでにアイデアが出尽くしていて結局人の書いた論文を読むのが仕事みたいになってしまった。森は面白くなかった。次に与えられた仕事が、文字認識の研究だった。これは当時ベル研究所で始められたばかりの研究だったので、ほとんど手がついていない分野だった。森にとってはうってつけの研究分野だった。これが森にとっての事実上の最初の仕事となった。成果はまもなくでた。1966年に完成した郵便番号自動読み取り区分機だった。そして通産省の国産コンピュータ計画に文字認識装置の開発で参加した。そしてこの頃、森の頭にはもうひとつのテーマが形を成しつつあった。発端は記者との雑談だった。
「そのような頃、新聞社の人と雑談をしているとき、欧米の新聞記者に比較して、日本の記者は記事を書くのが遅いことが話題になった。日本人の頭の回転が欧米の記者より遅いはずはない。−とすると、道具の差かということになった」
1971年頃の話らしい。雑談から始まった森のワープロ構想は、しばらくは胸の中に暖められていた。森が考えていた要求水準は、熟練を要しないで手書きより速く入力できるものということだった。森はその当時可能だったいろいろな入力方式を試したらしい。
日本語を機械入力する試みは意外と古くから行われた。1915年にすでに杉本京太が邦文タイプライタを発明している。これは広い板の上で漢字をひとつずつ拾っていくもので大変な熟練を必要としたが、公官庁、実業界に広く受け入れられ、入力のための専門オペレータが養成されていた。また外交官だった山下芳太郎がカナモジ運動のなかで開発し1923年に完成したカナモジタイプライタもあった。こちらはまさにタイプライタなので誰でも簡単に入力できたが、漢字を使わないので一般には普及しなかった。
その一方でコンピュータの時代になってくると、通常のキーボードを使って日本語を入力する方法がいくつも考案された。それには大きく2種類があり、1つは(広い意味の)連想入力方式で、もう一つがカナ漢字変換方式だ。連想入力方式は、カナ漢字変換のように変換という作業がなく、2ストロークで多くの漢字を入力することができるので、熟練すると入力が速く、現在でも一部のデータ入力専門会社で使われている。一時は100種類以上もあった連想入力方式の代表的なものは「ラインプット」というものだ。これは、カナ2文字で1つの漢字を割り当てたもので、ロミと入力すると、品と出たり、ミラと入力すると鏡になったりする。これは1971年に川上晃氏が速記用に開発して発表したものだ。この方式の難点は取り扱える漢字の数におのずから限りがあるということと、なんと言っても熟練した入力のプロでないとできないということだった。
これに対して、カナ漢字変換方式はコンピュータに変換させようというもので、当初は一部の学者が研究しているだけの海のものとも山のものともつかない代物だった。1964年頃から九州大学工学部の栗原俊彦教授が沖電気と共同で始めた研究が最初とされている。栗原は文節の抽出、単語辞書の使用、構文解析法など、仮名漢字変換の基礎的なアプローチ手法を開拓してその基礎を築いた。少し遅れて京都大学の長尾真助教授も日本語の構文解析をコンピュータで行う研究をスタートさせていた。こんな状況だったので、主流はもちろん連想方式だった。
しかし森が選んだのが当時の大勢からはずれた仮名漢字変換方式だった。今考えると、森がラインプットのような連想方式を採用しないで、仮名漢字変換方式を採用したのは、結果的にはわれわれにとって幸運なことだった。連想方式は、言ってみれば人間に変換させようという方式だ。もしこれがワープロの入力方式として標準となっていたら、今頃日本語入力スクールが大繁盛で、われわれは数千の入力パターンを覚えなければならない羽目になっていたろう。
しかし一方のカナ漢字変換方式もいばらの道だった。当時はパソコンなるものはなかったので、大型のコンピュータを使って細々とした研究が始まっていたにすぎなかったのだ。森は新入社員の中から九州大学工学部出身の河田勉を選んで、京都大学の長尾教授のもとに留学させた。河田は形態素解析の研究を行った。河田はそこで京大修士課程にいて文字認識の研究をしてた天野真家を見つけて東芝にくるようにさそった。天野は好きな研究ができるならと東芝に来たのだった。あとで参加したプログラマの武田公人を入れてワープロ開発の中核メンバーがそろった。
変換精度を上げるためには変換用辞書が欠かすことができない。実は九州大学の栗原教授グループは、当時としてはかなり使える辞書を苦労して完成させていた。東芝開発グループはその辞書をのどから手が出るほど欲しかったが、沖電気が一枚からんでいるのでそれはできなかった。辞書の作成と構文解析手法の開発は難航を極めたが、橋本進吉博士が整備した俗に言う橋本文法に依拠しながら、独自の構文解析技法を考案し変換精度を上げていった。特に、簡単だが実用的に非常に効果があったのが頻度情報の活用だった。2種類の頻度情報、つまり全体的な使用頻度の累積と、最も直前に使用されたという情報を使うことによって変換の精度は飛躍的に向上した。
「この着想が得られなかったら日本語ワードプロセッサは実用にならなかったかも知れない」
このようにして、最初は大型コンピュータ、そしてミニコンで動かせるようになってようやく実用化のめどが立ってきた。 1976年に予算化して正式なプロジェクトを発足、1977年に試作機が完成した。運が良かったのは1978年1月にJIS漢字コードが制定されたことだ。さっそくJISコードを組み込んだ。
JW-10は1978年10月に東京晴海で開かれたデーターショーで発表された。横32文字、縦14行の12インチの24×24ドットマトリックスディスプレイ、アルファベットはQWERTY配列、カナはJIS配列のキーボード、ワイヤードットインパクトプリンタ、印字可能な文字は6802字、CPUはTOSBACミニコンのLSIをそのまま使用、メモリーはどのくらいつんでいたのかは不明だが、10Mバイトのハードディスクに8インチフロッピー、文節指定方式と漢字指定方式の分かち書き方式で、単語辞書は8万語、24×24ドットの漢字フォントを搭載していた。値段は630万円、まさに日本語入力に特化したミニコンだった。
このあと、シャープをはじめほとんどのメーカーが参入し、価格も劇的に下がり普通のおじさんおばさんがワープロを使うようになった。森は1999年に東芝テックの社長に就任、2003年相談役に退いた。2003年に本田賞受賞した。
客観的に見て、現在の日本語入力システムは、漢字、ひらがな、カタカナを同じ原則で入力することができるので、かなり満足すべき段階にある。お隣の韓国では、ハングル(日本語のかなに相当する)がほとんどで、これは2ボル式と呼ばれる子音と母音で入力するもので、漢字は固有名詞などごく少数しか使われなくなってきており、その意味では日本よりハンディキャップは少ないがやはり漢字は単漢入力だ。一方中国では逆に漢字しかないので中国語入力はかなり混乱した状況にある。日本のローマ字入力に相当するピンイン入力はあまり普及しておらず、日本の音訓入力や連想入力に近い漢字をバラして入力する倉頡(そうけつ)入力などが主流となっている。つまり、漢字一字一字の入力で、中国語を入力するという段階にはいたっていないようなのだ。
こうした各国の文字入力の実情は、長い目で見てその国の文化の方向を左右する要因になりうる重大な案件ではある。アジアの小国には国語を捨てて英語の採用に向かっている国もある。かつて明治維新の頃、日本もそういう立場に立たされたことがある。デジタル化された文書が飛びかう今日、日本人が満足すべき国語の入力方式を手にしているという事実は、森健一をはじめとする技術者魂のたまものである。森はある雑誌のインタビューにこう答えていた。
「自分たちでこうなるだろうと予測をし、その予測に基づいて誰もやっていないテーマを見つけ、それを実現するための研究開発であれば、別に苦しくないんです。期間がかかったとしても、楽しいんです」
| 「日本語ワープロの誕生」 | 森健一/八木橋利昭共著 | 丸善 | 1989年7月 | 1200円 |
|---|---|---|---|---|
| 森健一先生ご自身の著書なので、随所に開発者でなければわからないことや苦労が書かれていて面白い。 | ||||
| 「日本語大博物館」 | 紀田順一郎著 | ジャストシステム | 1994年1月 | 3800円 |
| これは日本語に関してはひとかたならぬ思い入れをもつ著者ならではの内容と構成で、豊富な図版、写真があるのも特徴だ。 | ||||
| DIME新世紀への伝言 | 小学館 | 1999年11月 | 0円 | |
| 第5回東芝。日本語ワープロ・JW-10 前編1999/11/18 後編1999/12/02 DIMEという雑誌か21世紀になる直前に「新世紀への伝言」として特集したなかで、森先生のロングインタビューである。技術者魂がまだ健在だった時代からのメッセージになっていた |
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| 「運命の最終テスト」 | DVDプロジェクトX挑戦者たち 第95回 | NHK | 2002年9月 | 3800円 |
| 2002/09/03 放送 | ||||
| 「考える道具―ワープロの創造と挑」 | 古瀬幸広著 | 青葉出版 | 1990年2月 | 1325円 |
| 情報科学ジャーナリストとして独特の活動を続けている古瀬氏が書いたワープロ開発史だ。このあと、「ワープロ一号機に賭けた男の戦争」というタイトルがあるが、現在は古瀬氏のホームページで読むことができる。 http://archive.honya.co.jp/contents/yfuruse/documentary/shincho45_9212/ |
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